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2021年07月13日

編集後記 『こみゅにてぃ』111号

 大海の荒波に揉まれ、何度も溺れかけながらたくましき生きぬく人もあれば、日の射さない井の中で生涯を終える蛙(かわず)もいる。
 家から歩いて四、五分のところに小さなお堂があって、裏庭の木蔭に古い井戸がある。その底を覗きこみながらそんなことを思った。
 それなりに由緒のある井戸なのだが、わざわざここまで脚を運ぶのは吟行の人くらいだろう。
 「古池や」というのだから、文法構造上一番の強調は「古池」で、体言止めの「音」が次に来るのだろうか。確かに「古池」と「音」だけで、すでに一つの世界ができあがっている。その「音」は「水音」なのだから、蛙はとうぜん無言でいなければいけない。
 蛙の唄のような小説を同人雑誌に書き続けている私には、詠人の去った静寂のなかから、蛙の、自嘲のこもった鳴き声が聞こえてくる気がする。
「芭蕉さん、これでようござんすね」
 彼はそうつぶやいてから、ひと声、己の声を確かめるように鳴くのだった。
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posted by 春木静哉 at 08:45 | Comment(0) | 編集後記

東へ

 家の前の通りを三、四百メートル東へ行った右手に、亡命時代の郭沫若(かくまつじゃく)が、日本人妻佐藤をとみと五人の子と暮らしていた旧宅跡がある。跡というのは、その住居は平成十六年に別の場所へ移築復元され、記念館となっているからだが、それ以前、通りから少し奥まったその土地は雑草の生えるまま放置され、建物もかなり傷んでいたようだ。
 六十年の人生の大半を今の家で過ごしてきたぼくは、四十過ぎまで郭沫若という人も、戦前彼がそこで隠棲していたことも知らなかった。
 
 四川省楽山の地主の家で八番目の子として生まれた郭沫若は、大正三年から十三年まで、一高に設けられた特別予科で一年間日本語を学んだ後、岡山の六校、九大医学部と日本に官費留学し、岡山時代に結婚したをとみと四人の子を連れ上海に帰国する。帝大在学中から文学に熱中していた彼は医学を捨て、一高時代の友人らと上海で「創造社」を設立、マルクス主義文学に傾倒していく。広東大学に職を得て一家は広州へ移り、そこで毛沢東や周恩来と知り合い北伐に参加するが、孫文亡き後蒋介石が国民党の実権を握ると国共合作は崩壊、蒋介石批判をした彼は命を狙われ、周恩来の勧めもあって一家は日本へ亡命する。
 昭和三年、沫若三十五歳のときであった。
 ここでの彼は甲骨文字や金石文、銅鐸などの考古学研究に没頭し、唯物史観にもとづく中国古代社会研究で多くの成果をあげるかたわら、漢詩、自叙伝、小説などの創作に取り組み、露、独、米文学の翻訳にまで執筆の手を伸ばしている。
 昭和六年の満州事変、七年の日華事変をへて満州国が成立、のちに十五年戦争といわれる日中戦争のとば口にあって、故国生民の塗炭を思う革命者の内心は、千々に乱れていたにちがいない。日本官警の監視下の中、をとみは四男志鴻(しこう)を産み、彼はこの地で五人の子の父親となった。
 中国国内では西安事件をきっかけに再び国共合作の機運が高まっていた。昭和十二年七月七日に盧溝橋事件が勃発すると、その十数日後の七月二十五日未明、沫若は妻子に何も告げずに家を出る。故国に帰り抗日戦線に加わるためだった。このときの心情を、のちに彼は血涙(けつるい)という言葉で表している。
 
 敗戦後の昭和二十三年、をとみは中国永住を決心して台湾を経由し中国本土へ渡る。沫若の招聘に応じてのことだった。をとみと沫若は十一年ぶりに香港で再会するが、沫若には中国での妻子がいた。帰国後抗日宣伝工作の責任者になった沫若は、周恩来の主導で同志だった女優于立群(うりつぐん)と昭和十四年に結婚していたのだ。当時の中国では一夫多妻が認められていたから、立群にこだわりはなかったようだが、招かれての訪中だっただけにをとみにはショックだった。沫若と立群の間には五人の幼児がいて、沫若の去ったあと、ひとりで五人の子を育てたをとみには、沫若の庇護を受けて生きる道は考えられなかったのだろう。彼女は身を引き一旦台湾まで引き上げたが日本に帰国することはなかった。その後彼女と五人の子どもたちは皆中国籍を取得した。長男和夫と次男博はそろって昭和十六年に京都帝大を卒業し、博は大学院まで進んでいる。日本で最高教育を受けた二人は、新生中国にとって貴重な人材だったようだ。晩年のをとみは大連の博と上海の和夫との間を行き来しながら百一歳まで生き、平成六年上海で生涯を閉じた。
 一方沫若は新中国の政治の中枢で活躍し、昭和三十年中国科学院芸術視察団団長として来日する。
 そのとき亡命時代の旧宅にも立ち寄ったが、隣家近隣の人たちはみな懐かしんで十八年ぶりにあう沫若を歓待した。かつて彼が庭に植えた泰山木は大きく育ち、銀杏の樹は伐られていた。一人の老人が一枚の硯を持って現れ、これはあなたが彫ったものだと差し出すと、しばし考え思い当たったようだが、その銘の拙(つたな)さに恥じ入った沫若は、「百年たてばこれは秦漢の磚(かわら)の四倍の価値が出る」と冗談を言う。老人は「家宝として子孫に伝える」と応えるのだが、その老人というのはいまでも近くの神社の氏子総代を務めるT家の何代か前の旦那様ではないかと、ぼくは密かに思っている。T家は古くから続くこの辺りの地主農家の一つで、昭和五年に沫若の建てたこの平屋の日本家屋の地面はたぶんT家の持ち物で、つまり地主にあたるはずだ。
 沫若はその旧宅の座敷に坐りすすめられた茶を飲みながら、そこに在りし日を思い返す。
 南向きの家の背後、北側の通りを隔てた数十メートル西に墓地のある小さな丘があって、時に彼はそこに登った。長い松の枝が古墓を蔭っている。彼は故国を憂える。ついに帰国を果たせず、自分はここに葬られるのだろうかと思う。家族のにぎわう家内から逃れ、ここへ来て孤独に浸りたかったのかもしれない。
 その墓地はいまでもある。築山程度の小さな丘だ。通りに面した薄暗い斜面に六、七家の墓所が柵で仕切られて並ぶが、それらはT家をはじめとする古くから続く地主農家のものだ。通りを外れて北側の裏道から石段を上ると、木々に遮られて通りからは見えない墓がさらに数十基あった。ほとんどの墓石には通りに面した墓と同じ性が彫られていた。
 沫若は旧宅を訪ねたときの感慨を一篇の詩にしている。その五言詩の歌碑は、ぼくの家からみて真北にあたる丘の上の公園にある。昭和四十二年に建立されたそうだ。
 沫若の長詩の後半に、「一終天地改」という一句がある。墓地の丘に登った昔を詠んだ次の部分だ。木星の公転周期は十二年で、中国ではそれを一終というそうだ。日本敗戦後も中国国内では内戦が続き、中華人民共和国が建国されたのは昭和二十四年のことだ。彼が血涙をしぼってこの地を後にしてから、ちょうど十二年だった。
 郭沫若が旧宅を訪れたのは昭和三十年だから、歌碑を建立した関係者たちは、当然この一終を意識していたはずである。

(『こみゅにてぃ』111号「文籠」・2021年07月)
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posted by 春木静哉 at 08:44 | Comment(0) | エッセイ・雑文

2021年03月31日

編集後記 『こみゅにてぃ』110号

 仕事をしていればどうしても時代の変化に対応していかなければならない。
 私の場合、ため息をついていやいやその変化の中に引き摺り込まれていく、という感覚になることが多い。だから、せめて小説を書くときくらい、その窮屈さから解放され、自分の馴染んだ時代感覚の中で自由勝手に書きたいと思う。プロの作家と私たちのような同人誌作家との、立ち位置の一番大きな違いはそこにあるのではないか、と最近思ったりする。商業メディアに関わっている以上、時代の変化にまったく無頓着というのでは、出版社もきっとこまってしまうだろう。
 だが、本当は私が暢気すぎるのかもしれない。アマチュアの同人誌作家だって、時代の変化に敏感に反応し、今日的なテーマに挑んでいくべきだと考える人は、案外多いのかもしれない。そういえば「今の時代」といったコトバはいろいろな場面でよく眼にする。
 「今」を無視するような書き手の作品には文学的な価値がない、という考え方だってもちろんあっていいと思う。だが、時代の変化をうまくかわして、のびのびと書き手自身の馴染んだ時代に根をおろしていく小説が面白いと思う人もきっといる。少なくとも私は後者に属する読者であるし、書き手としてもそういう小説が書けたらと思っている。
 こみゅにてぃ同人の平均年齢もかなり高くなってきた。還暦の私など鼻たれ小僧のうちだが、ここまでくればもう老少不定の世界である。それは書き手としての寿命も含めてという意味です。同人諸兄姉には、少しでも長く書き手寿命を維持してほしいと願っています。どうか書いて下さい。 (春)
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posted by 春木静哉 at 00:00 | Comment(0) | 編集後記

2020年11月30日

編集後記 『こみゅにてぃ』109号

 巻頭の「イトコの姉ちゃん」の作者山岸とみこさんは、本誌創刊メンバーの一人である。坐骨神経痛で十五分と坐っていられない彼女は、一年くらいかけてこの力作を仕上げたようだ。今の山岸さんは、孜々として書くべきことを書いている。書くべきことがあってそれに向っているとき、書き手は最も充実している。そんなときは少々の障壁があっても、なんとか書けるものである。
 渡邉里美さんは本号の「白いゴムまり」が「こみゅにてぃ」デビュー作になる。童話を少し書いていたという彼女は、還暦を前に小説に挑戦しようとしている。話を聞いてみると、はっきりと書きたいことのある人だった。
 本号は、老年の文学を考える上で、いいテキストになっていると思う。活字離れが進み、表現形態がどんなふうに変わっても、文学が消えてなくなることはない。供給量の面では老年の文学の比重が大きくなることは確かだが、大人の文学が増えると考えれば、それはそれで必ずしも悪いことではない。商業的な隆盛ばかりが文学の充実ではないのである。書くべき人が書き、読みたい人が読める仕組みをうまく作ろうと割りきればよい。仕組み作りはそんなに難しいことではないはずだ。
 若い人が入らない、入ってもなかなか定着しないという課題は、もちろん「こみゅにてぃ」にもある。ただ一方で、彼らが一つ所に無理をして留まることはないという考え方もある。様々な人と出会い、武者修行を積む方が有益だという考え方だ。そんな中で老年の文学に触れる機会があり、将来そんな文学との関わり方もあるという選択肢ができれば、今積極的に同人雑誌に関わっている私たちは、一つの役割を果たすことになる。肝要なことは今の私たちが、しっかりと書くべきことを書くということだ。(春)
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posted by 春木静哉 at 00:00 | Comment(0) | 編集後記

2020年07月29日

編集後記 『こみゅにてぃ』108号

 本誌一〇七号に掲載された亜木康子さんの「猫道の頃」が優秀作品として「季刊文科」81号に転載された。同人雑誌季評担当の一人である谷村順一氏の高い評価を得てのことである。亜木さんは何十年も書きつづけているベテランの書き手だ。「湧水」におられたころから、私は彼女の小説のファンの一人だった。「猫道の頃」同様、以前「文學界」の同人雑誌評で松本道介氏によりベスト5に選ばれた「教室はやり歌」も、子どもの視点で書かれた小説だった。個人的には大人の眼で書いた彼女の作品の方が好きだが、子ども視点の書き方に、亜木さんらしい強みがあるのかもしれない。
 寄稿作品が少なく無理にお願いして書いてもらった作品が評価を得たのだから、「次号もお願いしますよ」と頼むと、少し斜に構える彼女はいつものだるそうな口調で、「またまた、その手には乗らないわよ」と笑い、私は軽くいなされてしまった。
 今号も作品あつめに苦労した。生活拠点を東京からご実家の地方都市に移された結木しのぶさん、昨年から地方自治体の勤務に変わられ、やはり東京を離れた久野木ゆきさんに今回はご無理をお願いした。お二人ともご多忙のなか快く応じてくださり、感謝している。
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posted by 春木静哉 at 10:32 | Comment(0) | 編集後記