急性期病院に入院している母が余命宣告を受けたが少し持ち直し、療養型の病院へ転院するか、受け入れてくれる施設を探すか、このところ少しバタバタしていた。家では今秋十七歳になる老犬が、この夏を乗り切れるかというくらい衰えて、こちらも目を離せないし、下の粗相など色々手がかかる。
私の経営する小さな会社は、コロナの影響による急激な変化にとどめを刺され、すでに瀕死の状態だ。そろそろ後始末のあれこれを考えなければならなくなった。
そしていま、病院のベッドでこの後記を書いている。ステントを交換するだけの短期入院だが、数えてみると、検査入院を含めればこの三年の間で九度目の入院になる。
家族にニートを抱える問題などもあって、八方塞がりの苦境は数年続いている。が、妻にしても私にしても悲壮感はなく、ふと笑いあったりすることも案外多い。こうなってしまえばもう笑うしかないよな、と開き直った気分なのかもしれない。とにかく二人はここで踏ん張っていて、そのこと自体が生きる気力になっているようだ。
そして私は、ノーテンキに小説を書きつづけている。
春木静哉の底の浅〜い文学周辺雑記を集めたページです
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2022年07月11日
2022年03月18日
編集後記 『こみゅにてぃ』113号
この時期は毎日の寒暖差が大きい。横着なので毎朝着るものをあれこれ考えたりせず、だいたい昨日と同じような服装で家を出る。するとその恰好は、少し暑いか少し寒いと感じることが多い。
毎年、今時分鶯が鳴く。季節のはじめはまだ発声練習中だからあまりうまくない、という話をむかし聞いたが、そんなことはない。今年もせんだって不意をつく美しい声が、朝の住宅街に響き渡った。今年も、去年も、一昨年も、第一声から見事だった。
引きこもっていたものがにわかに動き出すのもこの時期だ。
「啓蟄を啣(くわ)へて雀飛びにけり(茅舎(ぼう しゃ))」
自然の摂理の残酷さが琴線に触れる。文学には、これくらいのさりげない毒がなくてはいけない。
まもなく木蓮が咲き、桜花が賑わいを見せるころに花冷えがくる。そして穀雨の候。小さな季節の変化は、過ぎてしまえばあっという間のことだ。
鶯の初鳴きにしても、花の開花にしても、年に一度のことを気づかずにやりすごしてしまうのが、いかにも惜しいと思う年齢になってきた。書きたいと思う事柄も、心に触れるものも、少しずつ変わっていく。
▲TOPへ戻る 毎年、今時分鶯が鳴く。季節のはじめはまだ発声練習中だからあまりうまくない、という話をむかし聞いたが、そんなことはない。今年もせんだって不意をつく美しい声が、朝の住宅街に響き渡った。今年も、去年も、一昨年も、第一声から見事だった。
引きこもっていたものがにわかに動き出すのもこの時期だ。
「啓蟄を啣(くわ)へて雀飛びにけり(茅舎(ぼう しゃ))」
自然の摂理の残酷さが琴線に触れる。文学には、これくらいのさりげない毒がなくてはいけない。
まもなく木蓮が咲き、桜花が賑わいを見せるころに花冷えがくる。そして穀雨の候。小さな季節の変化は、過ぎてしまえばあっという間のことだ。
鶯の初鳴きにしても、花の開花にしても、年に一度のことを気づかずにやりすごしてしまうのが、いかにも惜しいと思う年齢になってきた。書きたいと思う事柄も、心に触れるものも、少しずつ変わっていく。
posted by 春木静哉 at 15:21
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| 編集後記
2021年11月12日
編集後記 『こみゅにてぃ』112号
先日、全国同人雑誌協会主催の「全国同人雑誌会議」に参加した。第T部では赤川次郎さんの講演のあと、三田誠広さんがスピーチをされたが、昨今新人賞を受賞するような若い作家たちの文章はあまりに稚拙で、小説の奥行、質ともにベテランの同人誌作家たちにはとても及ばないと話された。
それは必ずしもリップサービスではなく、「まほろば賞」選考委員の一人である三田さんはこの数年、「芥川賞」受賞作品より、「まほろば賞」受賞作品の方がいまや質が高い、というような発言をされている。
「まほろば賞」の候補作は事前に「文芸思潮」に掲載されるので、今年は私も読んだが、どれも立派な作品だった。
特筆すべきは候補作五作のうち四作の書き手が七十代前半、いわゆる団塊世代周辺の人たちだということだ。
出版不況のいま、特に純文学の世界では、文芸ジャーナリズムが低迷と迷走を続ける一方で、同人誌作家たちが、老年文学とでもいうようなジャンルをしっかりと根づかせつつある。
書くことが好きでしかたない人たちが、夢中になって、身銭をきって小説を書きつづけている。そういう人たちが全国にたくさんいる。
▲TOPへ戻る それは必ずしもリップサービスではなく、「まほろば賞」選考委員の一人である三田さんはこの数年、「芥川賞」受賞作品より、「まほろば賞」受賞作品の方がいまや質が高い、というような発言をされている。
「まほろば賞」の候補作は事前に「文芸思潮」に掲載されるので、今年は私も読んだが、どれも立派な作品だった。
特筆すべきは候補作五作のうち四作の書き手が七十代前半、いわゆる団塊世代周辺の人たちだということだ。
出版不況のいま、特に純文学の世界では、文芸ジャーナリズムが低迷と迷走を続ける一方で、同人誌作家たちが、老年文学とでもいうようなジャンルをしっかりと根づかせつつある。
書くことが好きでしかたない人たちが、夢中になって、身銭をきって小説を書きつづけている。そういう人たちが全国にたくさんいる。
posted by 春木静哉 at 17:00
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| 編集後記
西へ
家の前の通りを西へ三、四百メートル行った右手に小さな寺院がある。背後の丘の上に奈良時代から続く寺があって、その住職の隠居寺として江戸期に建立され、今は末寺のひとつという扱いになっているようだ。
大正五年五月中旬からのひと月半、ここに北原白秋が仮寓していた。『葛飾閑吟集』の生活はここからはじまるのである。
寺院から南東数百メートルの「文学の道」という桜並木に、市ゆかりの文学者と作品の案内板が十数枚設置されているが、北原白秋については次のように書かれている。
福岡県柳川市に生まれ、詩集『邪宗門』で人気絶頂にあった白秋は、人妻との道ならぬ恋で告訴され、名声は一朝にして崩れていった。傷心をやわらげてくれたのが、大正五年五月からの、江口章子(あやこ)と亀井院の六畳を借りての田園生活だった。時に、白秋三十一歳、章子二十八歳であった。六月末、江戸川の対岸小岩に移り、「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」を興すが、その旧居は現在、里見公園内に移築保存されている。
道ならぬ恋の相手というのは松下俊子という人で、明治四十五年七月に、俊子の夫松下長平から姦通罪で訴えられ、白秋と俊子は市ヶ谷の未決監に二週間拘留されることになる。この事件はその後の白秋の人生にも、文学にも多大な影響を与えたと言われているが、三木卓さんの評伝『北原白秋』には、「かれはスキャンダルによって人気を失うどころか、事件後はますますその一挙手一投足に注目を浴びているスターだった、と見るべきだろう。」と書かれている。
三木さんはその著書で謎の多い俊子と白秋の関係を、主に歌集『桐の花』に収められた歌や小文、書簡を通して深掘りしていく。それを読むと、白秋は俊子に相当の血道をあげ、まるで近松秋江の情痴小説を地でいく熱情を注いでいる。一方俊子は男の気を惹く術を心得た多情な女で、ときに必死に白秋をつなぎとめ、絡みつき、ヒステリックな面を見せたりもする。強い個性と激しい感情を持つ二人の恋愛は破滅的で、瀬戸内晴美さんの『花芯』を、ぼくはふと思い起こした。愛憎渦巻く様相は、まさに役者がそろったというふうだ。
白秋は曖昧な態度の俊子に四苦八苦しながらも結婚にこぎつけ、結核を患っていた俊子の療養のため、三崎から遥か南国の小笠原に渡るが、二人はそこで破局を迎えることになる。
精神的にかなりの深傷(ふかで)を負ったはずだが、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くというふうにならないのが白秋の白秋らしいところだった。三崎、小笠原での生活を歌った『雲母集(きららしゅう)』刊行の翌年、平塚らいてうのもとに身を寄せていた江口章子と知り合い、彼は再び熱烈なる恋文を書く。章子は大分の酒造家の娘で、柳河(現在の表記は柳川)の弁護士に嫁ぎ離婚をした過去を持つ。実家が造り酒屋、柳河、再婚など、白秋との共通点は多い。
三木さんの本によると俊子も章子も美人だったそうだ。白秋には、再び佳人を得たりという自負もきっとあったはずだ。
小さな寺院の入り口の案内板には当時の亀井坊(現在は亀井院)の写真が映っている。茅葺の粗末な御堂なのは、明治二十一年に焼失し、近所の農家の母屋を買い取り寺坊に代えたものだったからだ。その庫裡(くり)でひと月半過ごしたのち紫烟草舎に移るが、この数年は白秋が最も困窮した時代だった。案内板には、
『米櫃(びつ)に米の幽(かす)かに音するは
白玉のごと果敢(はかな)かりけり』
の歌が記されている。『雀の卵』に収められた「米の白玉」という一連の長歌のひとつ目の反歌である。それにつづく長歌の一節、
雀来よ、雀来よ来よ、いとせめて啄(つ)めよこの米、ひもじくばふふめこの米汝(みまし)らが饑ゑずしあらば、うまからば、うれしくかはゆく鳴くならば、白玉あはれ。わがどちはこの我は、わが妻とても、今さらに食(を)さずともよし、食(を)さずともよし。
白秋の、いかにも坊ちゃん育ちらしい、少年のような優しさだとぼくは思う。
ところで白秋がこの地に仮寓したころは、折悪く耕地整理の真最中だった。日露戦争後の食糧増産の機運を背景にした事業で、この町では水はけの悪い沼地を埋め立てて田畑にするというものだ。白秋が寓した坊の裏、北東側の台地は埋め立て用の土砂の採取地だった。彼が「そこら一面真赤な原っぱにされて了って」と嘆いたところは、ぼくの母が四半世紀のちに越してきたころも「はげ山」と呼ばれ、風が吹くと土埃が舞っていたというから、白秋がいたころはさぞかしであろうと想像される。「日和が続いても南風が吹くので、原っぱの塵埃で障子は開けられぬ。(略)机も畳もザラザラだった。」と彼は随筆の中で書いている。が、それにしてもというくらい散々に、白秋はこの地の悪口を連ねるのだ。
まず丘の上の寺の坊主がまるで風流を解さない俗人ばかりで「一にも金、二にも金だから、その他の事は推して知るべし」と言い、「始終糞舟が四五艘は留ってゐ」る、「鴉はわめく」、「疣蛙は啼く。」、「朝から晩まで南無妙法蓮華経ドンドコドンドコ」、「小坊主の観妙が木魚をポクポク」と、味噌糞一緒くたの雑言で、「蓮の池埋めてまま食ふ真間の寺南無妙法蓮華経今の日蓮」と、捨て台詞のような歌を残していく。「埋めてまま食ふ」は、寺社が寺領の沼地を埋め立てて家作にすることだが、それがあさましいと言うわけだ。
紫烟草舎での暮らしは一年二か月、白秋夫婦はその後動坂をへて小田原へ移り住む。その小田原でまた事件が起こるのである。赤貧を共に過ごした章子が、雑誌社の記者と駆け落ちをしたというのだ(そういう言い方が適当なのか諸説ある)。そこには後日谷崎潤一郎も絡んでくる。どこまでも興味の尽きない話なのだが、残念ながらここで紙面の方が尽きてしまった。
▲TOPへ戻る 大正五年五月中旬からのひと月半、ここに北原白秋が仮寓していた。『葛飾閑吟集』の生活はここからはじまるのである。
寺院から南東数百メートルの「文学の道」という桜並木に、市ゆかりの文学者と作品の案内板が十数枚設置されているが、北原白秋については次のように書かれている。
福岡県柳川市に生まれ、詩集『邪宗門』で人気絶頂にあった白秋は、人妻との道ならぬ恋で告訴され、名声は一朝にして崩れていった。傷心をやわらげてくれたのが、大正五年五月からの、江口章子(あやこ)と亀井院の六畳を借りての田園生活だった。時に、白秋三十一歳、章子二十八歳であった。六月末、江戸川の対岸小岩に移り、「紫烟草舎(しえんそうしゃ)」を興すが、その旧居は現在、里見公園内に移築保存されている。
道ならぬ恋の相手というのは松下俊子という人で、明治四十五年七月に、俊子の夫松下長平から姦通罪で訴えられ、白秋と俊子は市ヶ谷の未決監に二週間拘留されることになる。この事件はその後の白秋の人生にも、文学にも多大な影響を与えたと言われているが、三木卓さんの評伝『北原白秋』には、「かれはスキャンダルによって人気を失うどころか、事件後はますますその一挙手一投足に注目を浴びているスターだった、と見るべきだろう。」と書かれている。
三木さんはその著書で謎の多い俊子と白秋の関係を、主に歌集『桐の花』に収められた歌や小文、書簡を通して深掘りしていく。それを読むと、白秋は俊子に相当の血道をあげ、まるで近松秋江の情痴小説を地でいく熱情を注いでいる。一方俊子は男の気を惹く術を心得た多情な女で、ときに必死に白秋をつなぎとめ、絡みつき、ヒステリックな面を見せたりもする。強い個性と激しい感情を持つ二人の恋愛は破滅的で、瀬戸内晴美さんの『花芯』を、ぼくはふと思い起こした。愛憎渦巻く様相は、まさに役者がそろったというふうだ。
白秋は曖昧な態度の俊子に四苦八苦しながらも結婚にこぎつけ、結核を患っていた俊子の療養のため、三崎から遥か南国の小笠原に渡るが、二人はそこで破局を迎えることになる。
精神的にかなりの深傷(ふかで)を負ったはずだが、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くというふうにならないのが白秋の白秋らしいところだった。三崎、小笠原での生活を歌った『雲母集(きららしゅう)』刊行の翌年、平塚らいてうのもとに身を寄せていた江口章子と知り合い、彼は再び熱烈なる恋文を書く。章子は大分の酒造家の娘で、柳河(現在の表記は柳川)の弁護士に嫁ぎ離婚をした過去を持つ。実家が造り酒屋、柳河、再婚など、白秋との共通点は多い。
三木さんの本によると俊子も章子も美人だったそうだ。白秋には、再び佳人を得たりという自負もきっとあったはずだ。
小さな寺院の入り口の案内板には当時の亀井坊(現在は亀井院)の写真が映っている。茅葺の粗末な御堂なのは、明治二十一年に焼失し、近所の農家の母屋を買い取り寺坊に代えたものだったからだ。その庫裡(くり)でひと月半過ごしたのち紫烟草舎に移るが、この数年は白秋が最も困窮した時代だった。案内板には、
『米櫃(びつ)に米の幽(かす)かに音するは
白玉のごと果敢(はかな)かりけり』
の歌が記されている。『雀の卵』に収められた「米の白玉」という一連の長歌のひとつ目の反歌である。それにつづく長歌の一節、
雀来よ、雀来よ来よ、いとせめて啄(つ)めよこの米、ひもじくばふふめこの米汝(みまし)らが饑ゑずしあらば、うまからば、うれしくかはゆく鳴くならば、白玉あはれ。わがどちはこの我は、わが妻とても、今さらに食(を)さずともよし、食(を)さずともよし。
白秋の、いかにも坊ちゃん育ちらしい、少年のような優しさだとぼくは思う。
ところで白秋がこの地に仮寓したころは、折悪く耕地整理の真最中だった。日露戦争後の食糧増産の機運を背景にした事業で、この町では水はけの悪い沼地を埋め立てて田畑にするというものだ。白秋が寓した坊の裏、北東側の台地は埋め立て用の土砂の採取地だった。彼が「そこら一面真赤な原っぱにされて了って」と嘆いたところは、ぼくの母が四半世紀のちに越してきたころも「はげ山」と呼ばれ、風が吹くと土埃が舞っていたというから、白秋がいたころはさぞかしであろうと想像される。「日和が続いても南風が吹くので、原っぱの塵埃で障子は開けられぬ。(略)机も畳もザラザラだった。」と彼は随筆の中で書いている。が、それにしてもというくらい散々に、白秋はこの地の悪口を連ねるのだ。
まず丘の上の寺の坊主がまるで風流を解さない俗人ばかりで「一にも金、二にも金だから、その他の事は推して知るべし」と言い、「始終糞舟が四五艘は留ってゐ」る、「鴉はわめく」、「疣蛙は啼く。」、「朝から晩まで南無妙法蓮華経ドンドコドンドコ」、「小坊主の観妙が木魚をポクポク」と、味噌糞一緒くたの雑言で、「蓮の池埋めてまま食ふ真間の寺南無妙法蓮華経今の日蓮」と、捨て台詞のような歌を残していく。「埋めてまま食ふ」は、寺社が寺領の沼地を埋め立てて家作にすることだが、それがあさましいと言うわけだ。
紫烟草舎での暮らしは一年二か月、白秋夫婦はその後動坂をへて小田原へ移り住む。その小田原でまた事件が起こるのである。赤貧を共に過ごした章子が、雑誌社の記者と駆け落ちをしたというのだ(そういう言い方が適当なのか諸説ある)。そこには後日谷崎潤一郎も絡んでくる。どこまでも興味の尽きない話なのだが、残念ながらここで紙面の方が尽きてしまった。
参考図書:綿貫喜郎『市川物語』(飯塚書房)他
(『こみゅにてぃ』112号「文籠」・2021年11月)
posted by 春木静哉 at 17:00
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| エッセイ・雑文
2021年07月13日
編集後記 『こみゅにてぃ』111号
大海の荒波に揉まれ、何度も溺れかけながらたくましき生きぬく人もあれば、日の射さない井の中で生涯を終える蛙(かわず)もいる。
家から歩いて四、五分のところに小さなお堂があって、裏庭の木蔭に古い井戸がある。その底を覗きこみながらそんなことを思った。
それなりに由緒のある井戸なのだが、わざわざここまで脚を運ぶのは吟行の人くらいだろう。
「古池や」というのだから、文法構造上一番の強調は「古池」で、体言止めの「音」が次に来るのだろうか。確かに「古池」と「音」だけで、すでに一つの世界ができあがっている。その「音」は「水音」なのだから、蛙はとうぜん無言でいなければいけない。
蛙の唄のような小説を同人雑誌に書き続けている私には、詠人の去った静寂のなかから、蛙の、自嘲のこもった鳴き声が聞こえてくる気がする。
「芭蕉さん、これでようござんすね」
彼はそうつぶやいてから、ひと声、己の声を確かめるように鳴くのだった。
▲TOPへ戻る 家から歩いて四、五分のところに小さなお堂があって、裏庭の木蔭に古い井戸がある。その底を覗きこみながらそんなことを思った。
それなりに由緒のある井戸なのだが、わざわざここまで脚を運ぶのは吟行の人くらいだろう。
「古池や」というのだから、文法構造上一番の強調は「古池」で、体言止めの「音」が次に来るのだろうか。確かに「古池」と「音」だけで、すでに一つの世界ができあがっている。その「音」は「水音」なのだから、蛙はとうぜん無言でいなければいけない。
蛙の唄のような小説を同人雑誌に書き続けている私には、詠人の去った静寂のなかから、蛙の、自嘲のこもった鳴き声が聞こえてくる気がする。
「芭蕉さん、これでようござんすね」
彼はそうつぶやいてから、ひと声、己の声を確かめるように鳴くのだった。
posted by 春木静哉 at 08:45
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| 編集後記